或る日記(仮)

業務外日誌。

2023/05/04

パソコンのブックマークのずっとずっと奥の方から、昔に書いていたと思われるブログが発掘された。中身をみた。とてもひどいものだった。俺ってこんなにひどかったっけ?思い出はいつもきれいなものだ・・・。

 

最後の更新は2016年8月。およそ7年前である。考えると、この7年の間に、私の生活は、一変してしまった。こういったひどいものを生み出す活動から遠ざかってしまった。日々、ちゃんと意味のある活動ばかりしてしまっている。人とちゃんと関わってしまっている。社会における役割を果たしてしまっている。お金を稼いでしまっている。

他方で、慌ただしい7年間、思索を深めることは減ったかもしれない。心を震わせる機会は減ったかもしれない。

昔書いた文章を読み返して、俺はあの頃の輝きを失ってしまっているな、と思った。

 

これからでも、また、ひどい文章を生み出すことができるだろうか。思索を深めることができるだろうか。そんな期待を込めて、ブログを再開してみたいなあ、と思ったので、更新してみた。

 

続くかどうかは、わからぬ。

ぼくとちんたい

 僕の修習地はB班なので実務修習は9月末までで終わり、12月以降の新居を探さなければならない。

 さて、新居はどういうところにしようか。物件を探すというのは心躍るひとときである。こういう家でこういう暮らしをしよう!という妄想に耽りながら、賃貸サイトとにらめっこしている。なんともまあ、未来を想像するのは楽しい。2017年のぼくはたくさんかせいで、いろんなたのしいことをするんだ!!

 

 私が新居に求める条件は以下の通り。

①事務所に近いこと

 近さは正義である。私はがちで重要な行事に何度も遅刻してきた前科前歴があるので、なんとしても近いところに住んで、重要な会議15分前とかに起床してもクライアントやパートナーの評価を下げずにいたいのだ。

 

②ペット可であること

 人間は信用できないので、動物を飼って、行き場のない母性を注ぎ込み、癒やし癒やされ支え合い、この生きづらい日々を乗り切ろうという算段である。

 

③家賃がこれまで住んできたところのなかで一番高いところ

 これは重要な点である。逆に、高いほうがいいのだ。

 これはかつてみたテレビ番組で芸人が語っていた話を参考にした考え方である。私は芸能に疎いので、その番組や芸人の名前は覚えていないのであるが、大要、次のような話であった。

 いわく、その芸人は引っ越しが好きで数年に一度は引っ越しをするというのであるが、引っ越し先は前に住んでいたところより、必ず家賃が高いところにするのだそうだ。理由としては、第一に、頑張らないと家賃すら払えなくなる、と自分を追い込む意味がある。常に金を稼ぐ必要がある状況に自分を置くことでハングリー精神を維持するのである。第二に、家賃が高いところはやはり目に見えて建物が豪華になるところにある。たとえ豪華な家に住むような趣味がなかったとしても、自分の社会的ランクの上昇が常に可視化されているというのは明日の頑張りへの活力を生むというのである。

 なるほどと思わせられる考え方である。

 芸人は不安定な職業である。いま稼いでいても、数年後、いや数ヶ月先に月収が数十分の一に低下する、なんて話もまったく珍しくない業界である。それにもかかわらず、このような作戦を実施するというのはまさに背水の陣というところであろう。生き馬の目を抜く芸能界、これくらいの覚悟はないと成功もおぼつかないのかもしれない。

 さて、こんなご時世である。もはや弁護士という職業の不安定さも、程度の違いさえあれ、芸人の生き方に通ずるところがあろう。

 売れ続けないとやっていけない状況に自分を置くことにより、私も成功してやろうという算段なのである。まったく、やな時代になりましたね。本音は、努力せずに成功したいものです。

 

 それではふたたび新居の妄想に戻ろうと思う。

 

 そういえば最近リゼロにすごくはまっていて、そして水瀬いのりちゃんに鬼はまりしつつある。あの愛らしい容姿はともかくとして、声が、とにかく、いい。「ここさけ」のときも思ったが、若干かすれ目?だが全体としてバランスをくずさず耳に心地よく脳をゆさぶる声は唯一無二です。あの素晴らしいお声をうまく表現するすべを私はもたないのだけど、とにかく最近水瀬いのりがちょうアツいのである。

20151206

導入修習がはじまっている。導入修習が始まる前の俺は「修習なんててきとーにお茶を濁して、最後のモラトリアム楽しみまっしょい!!」というタイプの軽薄な若者だったのだけれど、和光にきて法律面非法律面を問わず知力の著しい低下を実感しておりちょっと方針転換を余儀なくされております。俺ってこんなばかだったっけ。GENJITSUをみせつけられて、楽しみまっしょいとか言っとる場合やないやろ勉強せえよ、という気持ちになってきました。俺のような軽薄な若者に冷や水をあびせてから実務修習に送り出すことができるという意味では、一般的にすこぶる評判の悪い導入修習ではありますが、設置した意義は大きいのではないでしょうか。「モラトリアム楽しみまっしょい」的若者を実務修習に放り出してしまうと実務現場からしたらいい迷惑だからね。しょうじきに話すと、もう早く修習地か実家に帰りたいよママーというところが本音だけれど、これは案外にいい制度だよ。これからもりもり勉強がんばろー

 

そういえば、和光はくそだよ、という前評判を方々からきいていたので、いったいどんな魔境だと戦々恐々としていたのだけれど、駅前は東京に近いのに人は少なくこじんまりとまとまっていていい感じだし研修所近くは公園が充実していて緑が多いし、俺にはすばらしい土地のように思える。とてもいいところですよ。散歩が楽しい。散歩が楽しくてよく出歩くので、昨日の夜はとっても長い流れ星をみることができたし、今日の昼は近くの公園でハーモニカをふきながら自転車に乗っているおじさんをみることができたんだよ。俺は謎のおじさんに変に惹かれるところがあるので、ハーモニカおじさんにはまた会えると嬉しいです。

 

ですます調にするかである調にするか非常に悩ましいので、また文体変わるかも。おやすみ。

ブログを再開するときに僕の語ること

ブログを再開しようと思う。再開、というほど長く続けたわけではないような気がするけれども、やはり一定の期間書いていたものを再び書き始めるのだから、再開、でいいでしょう。

 

再開しようと思ったきっかけはいくつかある。

1つは、μ’s Fan Meeting Tour に参加したことである。いや、正確には、参加したのに、参加したときに感じたあの素晴らしい興奮、脳みそがとろけた感覚、全身が勃起するようなあの血液の全身的激流、、、を鮮明に思い返せなかったことだ。

俺は記憶力がどうも人より悪いらしい。思えばいろんなことを思い出せなくなっている。楽しい思い出であっても楽しくない思い出であっても、そのどちらでもないような思い出であっても、全般的に思い出せなくなっているように思える。

風香いわく、写真は思い出の付箋…ですね?、である。

 

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俺もまた、いわく、

 

ブログもまた思い出の付箋…ですね?

 

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あとで読み返して、記憶の補助線のような役割になればよい。

もっとも、ストレス発散のために嘘を書き散らすこともあると思うし、よくわからない妄想による精神病者の手記のような様相を呈することも予想されるので、記憶の補助線足りうるブログを果たして俺は書くことができるのかははなはだ疑問ではある。

 

 

きっかけの2つに、日本語力の低下だ。

文章力というのはとにかく文章を書かないとどんどん低下してしまう。現代の若者の生活において、文章を書く機会というのは恐ろしく少ない。書いたとしても、ラインのやり取りの1行や2行の超短文である。超短文なんて書いても焼け石に水、文章力低下を食い止めるにあたりなんの役にもたたない。

しかも、である。俺は、世間で言うところのいわゆる孤高の男、である(なお、この点に関して「ぼっち」であるといわれる見解もあろうが、それは明確に否定しておきたい。「ぼっち」と「孤高の男」の違いは、端的にいうと、その孤立の積極性にある。俺は消極的に一人なのではなく、積極的に一人でありたいから一人なのである。ほんとである。ほんとだってば!)。

常人と交わるのを潔しとせず、野山にまじりて竹を取りつつよろずのことに使いけり、といった感じだ(?)。

つまり、一般の若者はラインでそれでも短文のやり取りをして焼け石に水をかけているところ、俺は短文のやりとりさえもしない。焼け石をそのまま放置である。人と交わるを潔しとしない孤高の男・俺には、まったく、文章を書く機会がないのである。

そこで、ブログで日記でも書くことにして、我が文章力の低下に歯止めをかけようとくわだてたのである。

 

 

 

3つに、さみしさ、である。

先程も言ったけれども、俺は人と交わるを潔しとしない、孤高の男である。かっこいいのである。なぜなら孤高の男であるからである。

しかし、孤高のかっこいい男もやはり人の子である、感情というものを持ち合わせている。これは生きていくうえでとても邪魔なものであるが、感情があるからこそ人生は人生足りうるのであり、捨ててしまうわけにもいかない。

すると、どうだろう。人と交わらないと…なんというか…とてもさみしいのである。

さみしさを紛らわせるために、下鴨あたりに大量にいる猫に話しかけたり、吉田山の木のうろに頭をつっこんで言いたいことを吐き出してもいいのであるが、せっかくネットがあるのだから、ネットにいろいろ書いて感情を慰めようというわけである。

 

これを要するに一言で言うと、僕ちゃんさみしいよー、というわけだ。

 

こんなネットの片隅にぽつりとあるブログなど、googleの検索データに登録するための自動ロボットしかアクセスしないだろうとは思うので、木のうろに頭をつっこんで一人言いたいことを吟じるのとさほど変わりのない感じもしないでもない。でも、まあ、俺は単純な男であるから、木のうろより、いんたーねっとに向かって話すほうが、なんとなくさみしくないのだ。よろしく。

散髪について語るときに僕の語ること

あした髪をきる。三日目に予約をしてから,ずっと憂鬱だった。今日は前日だから,特に憂鬱で,朝起きた瞬間からずっと頭の奥で,「あした髪をきるんだ…」という思いがちらちらとしていた。

 

俺は髪をきるのがとても苦手なのである。

 

第一に,人に髪を触られるのが不快である。顔と顔の距離が近くてこわい。顔の近くでハサミをちょきちょきやられるのもおそろしい。

第二に,俺のような人間と美容師のような人種との会話がはずむわけがない。向こうも商売であるから,なんとか会話の花をさかせ客を楽しませようと話をふってくるのだけど,俺は期待にこたえることが一切できないので,美容師のこの涙ぐましい試みが実を結ぶことはまずない。すなわち,客たる俺は会話をふられて楽しい気持ちになることはないのである。のみならず,俺はその日一日,いや,一週間ものあいだ続くこともあるだろう,「なんで俺は爽やかに人との会話を楽しむことができないのだ…芸能人の話であるとか,学校のこと,いやこの際天気のことでもいいだろう,なんでもいい,当り障りのない会話を当たり障りなくこなす,社会人として最低限のスキルである,俺は…俺は…」と落ち込んで過ごすことになるのである。

第三に,なぜこのような嫌な思いをして俺が金を払わなければならないのだ。阿呆か。あべこべの道理である。

 

 

もっとも,ネットにこのようなことを書いているような人間も,実際に現実世界では,なんともないというふうに,へらへらと美容師と会話していたりするものだから要注意である。

人生足別離

μ’s ファンミーティングツアーの抽選発表があり,なんとか一公演だけチケットを確保できた。

俺が当選した会場のチケットはすぐヤフオクに出品されて,即決10万円で落札されていたから,かなりの倍率だったんだとおもう。さいきん運に見放されている傾向にあった俺だけど,なんとか“気持ちで”勝ち取った一枚だ。「気持ちで勝った」みたいなことばを多用する薄ら寒いスポーツ解説者は嫌いだけれども,やっぱりこれだけ強く願って,想って,祈って,当選を勝ち取ったときなんかには,祈りが通じたんだと言いたい。想いは祈りだ。想い続ければいつかμ’sにだって会えるのである。

シカちゃんに,そらまるに,ナンジョルノに,俺は,この夏,会うんだ。かつてないアツイ夏の到来の予感を胸に,なんともいえない多幸感につつまれた俺は,喫緊の課題である公法系の学力強化活動にも身が入るのであった。そう…あのニュースが飛び込んでくるまでは…。

 

俺の心を乱した犯人は以下のものである。

 


ラブライブ! サンシャイン!! スタート | 電撃G's magazine.com

 

 

まだこれだけじゃなにもわからないのだけど,予想するに,ラブライブ!を冠する新企画がスタートするようで,しかもそれはμ’sではなくて,違うキャラクターが主人公となる物語のようである。ネット上では,この中央にいる女の子は,スクフェスに登場するモブキャラである「支倉かさね」ではないかなどと言われているが,そんなことはどうだってよい。

 

俺にとってのラブライブはやはりμ’sありきのもので,新章がはじまることでμ’sが終わってしまうことがとてもこわいんだ。

 

新しい登場人物で新章ラブライブが開始したからといってμ’sが終わるわけではないし,新しい企画がはじまるのはそれはそれで楽しみじゃないか,オタクはやっぱり排他的で変化を嫌う,キモチワルイ生き物だなあ,とキミは俺を笑うかもしれない。

いや,しかし,すこし想像してくれたまえ。たとえば,だ。この新ラブライブが近い将来,同じように人気がでて,アニメ化されて,新しい声優もすごくがんばって,みんな魅力的で,ライブもファーストライブ,セカンドライブと成功をおさめるとしよう。そうすると,どうしたって,μ’sはかすんでしまう。このモンスターコンテンツ・ラブライブである。新しい声優は若くてかわいいし実力も兼ね備えた,けれどどこか荒削りな,そんな魅力的な新人声優ちゃんを揃えてくるだろう。一方で,現在のμ’sメンバーはどうしたって歳をとるし,新ラブライブが始動すれば,μ’sとしての活動も必然的に減っていく。ファンのこころもうつろうだろうし,だいいち優柔不断な俺だから俺自身の心だってうつろってしまうかもしれない。μ’sにいまくらい熱中できなくなってしまうのがおそろしい。

 

もっとも,コンテンツには必然的にいつか終わりがくるのだから,これは仕方ないことなのかもしれない。おれが歳をとるのと同じスピードでμ’sの声優らも歳をとるし,ファンだっていつまでも情熱を傾けられるわけではない。これは別企画があってもなくても同じことだろう。時期がはやくなるか遅くなるか,だけの違いである。そうであるならば,ここらで新しい企画をスタートというのは,歓迎すべきことで,「μ’sが終わっちゃうかもしれない,さみしいよお,新企画やるならμ’sでやってくれよお」なんてのは,原理主義者で老害で,声だけでかくて社会にはなんの貢献もしないオタクの,馬鹿なひとりごとにすぎないのかもしれない。

 

始まりがあれば,終わりも必ず訪れる。例外はない。これは万物に通底する原理である。

だとすれば,およそ社会において,すべてのものごとは,かわり続けざるをえないのだ。

 

唐代の詩人于武陵に「勧酒」という詩がある。

勧君金屈巵
満酌不須辞
花發多風雨
人生足別離

 

これについては井伏鱒二に以下の名訳がある。

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトエモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ

 

万物に終わりがあるのだから,別れはすべてのものごとに訪れる。我々が人生において出会うすべての喜びはその内在的制約として,いつかやってくる別れを抱えているといっても過言ではあるまい。

そうであれば,別れが訪れる前のこのひとときに,我々にできることはなにか。それは今目の前にある金の杯に,酒をなみなみと注ぐことに尽きるのではないだろうか。

そう,ラブライブになみなみと,情熱を,時間を,愛を,財貨を,二度と戻らぬ青春期の貴重な時間を,そそごうではないか!

 

人生足別離。さよならだけが人生だ。

若者はみな悲しい

昨年の短答試験をといてみた。得点率は以下のとおりであった。

憲法:68%

民法:75%

刑法:86%

なんか自己採点したときはけっこうショックでへこんだのに,こうして書きだしてみるとそれほど悪くないような気がしてきた。でも上三法の択一とか余裕っしょって思っていたから,主観的にはもっと得点できる気でいたんだよね。択一の自己採点は正解か不正解かで一刀両断されてしまうから,胃がキリキリと痛む。

憲法は去年の予備試験以来,択一はいっさいやっていないのでこれからの俺の頑張りに期待ということとして,民法は12月から少しずつ対策していたのに不甲斐ない。刑法はまあこんなものかなというかんじ。今日から毎日ちゃんと択一と条文素読をがんばろう。どの科目の短答も条文や基礎的な判例からの出題なので,しっかり押さえれば論文試験にもいきるとおもう(もっとも,今年から3科目になるのだから出題傾向が変化し,マニアックな出題が増えることもありうるかもしれない。俺個人の見解としては,受験生の負担軽減の趣旨で科目削減したのに,そういう方向へ出題傾向が変化するというのは本末転倒も甚だしく,さすがに法務省もそこまで阿呆なことをするわけがないと思っているのだが,近年の司法試験制度の迷走ぶりをみるに,十二分にその可能性も視野にいれた対策をしておく必要があるだろう。いやだけど)。

 

今日はうまく言葉にならないもやもやを抱えていた日であった。そのうまく言葉にならないもやもやを,今日これからここでなんとか言葉にしようと足掻くのもいいのだけど(当ブログはそういった自慰的行為をするために設立されたものである),なんとなく成功する気がしない。したがって,もやもやはもやもやのまま心にかかえて,今日はもう勉強にもどることにします。人は孤独なんだなあ,とかそういった類のことです。