或る日記(仮)

業務外日誌。

ブログを再開するときに僕の語ること

ブログを再開しようと思う。再開、というほど長く続けたわけではないような気がするけれども、やはり一定の期間書いていたものを再び書き始めるのだから、再開、でいいでしょう。

 

再開しようと思ったきっかけはいくつかある。

1つは、μ’s Fan Meeting Tour に参加したことである。いや、正確には、参加したのに、参加したときに感じたあの素晴らしい興奮、脳みそがとろけた感覚、全身が勃起するようなあの血液の全身的激流、、、を鮮明に思い返せなかったことだ。

俺は記憶力がどうも人より悪いらしい。思えばいろんなことを思い出せなくなっている。楽しい思い出であっても楽しくない思い出であっても、そのどちらでもないような思い出であっても、全般的に思い出せなくなっているように思える。

風香いわく、写真は思い出の付箋…ですね?、である。

 

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俺もまた、いわく、

 

ブログもまた思い出の付箋…ですね?

 

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あとで読み返して、記憶の補助線のような役割になればよい。

もっとも、ストレス発散のために嘘を書き散らすこともあると思うし、よくわからない妄想による精神病者の手記のような様相を呈することも予想されるので、記憶の補助線足りうるブログを果たして俺は書くことができるのかははなはだ疑問ではある。

 

 

きっかけの2つに、日本語力の低下だ。

文章力というのはとにかく文章を書かないとどんどん低下してしまう。現代の若者の生活において、文章を書く機会というのは恐ろしく少ない。書いたとしても、ラインのやり取りの1行や2行の超短文である。超短文なんて書いても焼け石に水、文章力低下を食い止めるにあたりなんの役にもたたない。

しかも、である。俺は、世間で言うところのいわゆる孤高の男、である(なお、この点に関して「ぼっち」であるといわれる見解もあろうが、それは明確に否定しておきたい。「ぼっち」と「孤高の男」の違いは、端的にいうと、その孤立の積極性にある。俺は消極的に一人なのではなく、積極的に一人でありたいから一人なのである。ほんとである。ほんとだってば!)。

常人と交わるのを潔しとせず、野山にまじりて竹を取りつつよろずのことに使いけり、といった感じだ(?)。

つまり、一般の若者はラインでそれでも短文のやり取りをして焼け石に水をかけているところ、俺は短文のやりとりさえもしない。焼け石をそのまま放置である。人と交わるを潔しとしない孤高の男・俺には、まったく、文章を書く機会がないのである。

そこで、ブログで日記でも書くことにして、我が文章力の低下に歯止めをかけようとくわだてたのである。

 

 

 

3つに、さみしさ、である。

先程も言ったけれども、俺は人と交わるを潔しとしない、孤高の男である。かっこいいのである。なぜなら孤高の男であるからである。

しかし、孤高のかっこいい男もやはり人の子である、感情というものを持ち合わせている。これは生きていくうえでとても邪魔なものであるが、感情があるからこそ人生は人生足りうるのであり、捨ててしまうわけにもいかない。

すると、どうだろう。人と交わらないと…なんというか…とてもさみしいのである。

さみしさを紛らわせるために、下鴨あたりに大量にいる猫に話しかけたり、吉田山の木のうろに頭をつっこんで言いたいことを吐き出してもいいのであるが、せっかくネットがあるのだから、ネットにいろいろ書いて感情を慰めようというわけである。

 

これを要するに一言で言うと、僕ちゃんさみしいよー、というわけだ。

 

こんなネットの片隅にぽつりとあるブログなど、googleの検索データに登録するための自動ロボットしかアクセスしないだろうとは思うので、木のうろに頭をつっこんで一人言いたいことを吟じるのとさほど変わりのない感じもしないでもない。でも、まあ、俺は単純な男であるから、木のうろより、いんたーねっとに向かって話すほうが、なんとなくさみしくないのだ。よろしく。