或る日記(仮)

業務外日誌。

若草のかほり

小泉花陽(久保ユリカ) : ラブライブ!Solo Live! II from μ’s 小泉花陽をずっと聴いている。近頃のおれが外から帰ってきてまずすることは(外にでることがあれば,だが),本アルバムよりどれを聴くか選ぶことである。

音楽を再生し,目を瞑ると,どこかの音楽スタジオだろう,音楽会社の大人たちが見守る中,花陽が緊張しつつもマイクに向かって思い切り声を振り絞る,レコーディング風景が思い浮かぶ。俺にはみえる。みえるんだ。

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いつもはメンバーといっしょにレコーディングをするから,一人でスタジオに入るのは今回がはじめてなのかもしれない。傍目からも緊張がみてとれる。季節は…きっと初夏だろう。Tシャツからすらりと伸びる白い腕がまぶしい。

女の子が一人きりの部屋でマイクに向かってうたっていて,それを真剣そのものの表情で見つめる部屋の外の大人たち,という構図は滑稽なものかもしれない。特に花陽のような気弱そうな女の子を囲み,メロメロになりつつも生真面目に見つめているおっさんたちは,どこか犯罪じみてもいるだろう。彼らは夢を,この小さな少女に,夢を,みているんだと思う。つらくどうしようもない現実を吹き飛ばしてくれる,そんな夢を。

彼女の喉から発せられる夢は,魔法の力でCDにパッケージされて,全国のオタクたちの部屋へ出荷される。現代のデジタル技術及び流通網はすごい。こんな社会の末端にさえも,夢が,届くんだ。

おかげで今日も僕の部屋では,スピーカーから星がでて,若草のかおりが俺の部屋を満たし,すてきな夢をみることができるのである。

 

ラブライブ!Solo Live! II from μ’s 小泉花陽

ふるさとは

ラブライブ特集のRの法則,さいこーでしたね。

シカちゃんが一段とかわいかった。俺はこれからラブライブ以外でもシカコを追いかけることにするよ。胃痛ラジオのイベントいきたい

 

ところで,室生犀星著作権がきれて青空文庫にでていたから,高校の国語の先生が紹介していて,印象に残っていた詩をさがしていた。

ふるさとは遠きにありて思ふもの
そして悲しくうたふもの
よしや
うらぶれて異土の乞食かたゐとなるとても
帰るところにあるまじや
ひとり都のゆふぐれに
ふるさとおもひ涙ぐむ
そのこころもて
遠きみやこにかへらばや
遠きみやこにかへらばや

室生犀星 抒情小曲集より)

高校生当時は強く上京(というか田舎から脱出すること)に憧れていて,いや,あこがれというよりも取り憑かれていたといいっていいかもしれない。病的なまでの憧れであった。田舎をでればすべてが変わると思って,毎日毎時間毎秒,田舎をでたいと思っていたし,報われない現状はすべて自分が田舎でくすぶっているところに原因があると思っていた。だから,上記の詩は印象に残っているのだと思う。俺は詩があまりわからないので,これはめずらしいことである。

もっとも当時はまだ高校生だからどこか遠い世界のことのような印象で,そんなものかねえ,という感じで,ひとつ上京したらそういう文学的気持ちになるのかもしれないなあという程度に思っていたにすぎなかったけど,今は実感をもって詩情を感じることができるように思える。ふるさとは心のよりどころであるけれども,決してじっさいに私を救ってはくれない。

情報通信機器・交通機関が発達し,故郷と都会での暮らしとのあいだの距離はぐっと縮まったのだけれども,現代においても,野蛮であたたかいふるさとと,生きづらいが知的文化的な都会との関係は根本のところではかわらない。ふるさとは思い出のなかではあたたかく我々を出迎えてくれるのだけれど,都会の学問・教養によってカルティベイト(cultivate)された人間にとって,本当の意味での拠り所には成り得ないのである。ふるさとは遠きにありて思ふもの,帰るところにあるまじや,である。

精神病者かく語りき;ラブライブスクールアイドルフェスティバルについての唯一の不満

スクフェスは救いである。

愛も希望も夢も親愛も情趣も信頼もなにもかも存在し得ないこの砂漠じみた現代社会において,最後に残された些細な緑地であり,希望湧き出す小さな泉であり,燦然と咲き誇る一輪の薔薇である。スクフェスは,現代社会砂漠を旅する孤独な我々が唯一その心の休息を許された,そんな場所なんだ。現代社会に生きる我々には,スクフェスしか,スクフェスしか,ないのである。

 

そのスクフェスにおける唯一の不満が次の点にある。

つまり,プレイヤーを恋愛の相手方と想定したストーリーの存在である。ここでは,男を,男女の恋愛を,セックスにつながるなんやかんやを,におわさないでほしいんだ…!

 

さっきも述べたが,ここは,現実社会で傷ついたものが翼を休めにくる,そんな場所なんだ。たとえゲームのプレイヤーをその相手と想定したストーリーであっても,現実社会における人間的ルール,すなわち男と女の間の恋愛,そんなことを持ち込まないでほしいんだ。ここに,プレイヤーの入る余地はないはずだ。僕らは,いわば神の視点から,彼女たちの日常をながめるだけでいい。ここではみゅーずの9人がいて,凛ちゃんがかよちんを好きで,まきちゃんがにこちゃんを好きで,ことりちゃんとうみちゃんがほのかちゃんを好きで,のぞえりは結婚していて,ほのかちゃんは実はのぞえりの子供で,それでいいんじゃないですか。そういうので,まったく矛盾なく調和された世界を構築することができるんじゃないですか。なんたって彼女たちはアンリアルな存在なんだから。歳をとることもなければ就活もしなくて,お金に困ることもないし,一般的に恋愛は男女でするものという社会風習や,男女間でなければ生殖は不可能であるという生物学的限界,通常夫婦には1歳年下の子供がいるなんてことはありえないという時空的限界,そういう現実社会でのくそみたいな制約から自由なんだ。

ここは…ここには…リアルはいらないんだ…かよちんが,まきちゃんが,平和に,百合百合してて,しかし露骨にはならず,そういう…そういう…

 

寝ます。

I wanna be ケインコスギ

司法試験が終わったらダイエットをしようと思う。毎日走りまくって,鶏肉とか野菜ばっかり食って,筋トレまでするという本格的なやつだ。なんだか身体が重いなあと思って,それからじっくりと鏡をみていたら,これは青年期の男児にあるまじき事態のような気がしてきたのだ。健全な精神は健全な肉体に宿る。精神も肉体もたるみまくりである。

司法試験後に開始するというのは,なんでもかんでも司法試験後にまわしすぎだろと思われる向きもあるかもしれない。ついいろんな物事を,特段司法試験後まで後回しにする必要のないものまで,司法試験後に後回しにしがちであるというのは,司法試験受験生あるあるであろう。司法試験は僕達にとって大きな区切りであるから,いろんなことのスタートラインに設定してしまうんだよね。

でもまあしかし,ダイエットを司法試験後にまわすのにはちゃんと理由がある。司法試験前にダイエットをしてしまうと,脳に栄養が十分供給されずに,勉強に支障がでるおそれがあるだからだ。当面,司法試験受験生である我々は,健全な精神及び健全な肉体よりも,まずは十分な栄養が供給された脳みそで勉強をしまくり,法律的素養を磨く必要がある。不健全な精神かつ不健全な肉体であってもとりあえずは司法試験に通ることを優先しなければならない。(また,ここまで相当長期にわたって甘やかし続けた我が肉体である,ダイエットを数ヶ月早くはじめたからといって,そう変わらないだろう。)したがって,司法試験後まではとりあえずはだらだらと生活をすることにした。

司法試験後はガチのガチのガチにします。ケインコスギくらい健康的になります。パーフェクトバディ!

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ところで,昨晩ネットショッピングによって私が負うことになった金銭債務の反対給付が本日,履行された。日本語でおkですね。

まあ,つまり,以下の商品を購入したのである。

AI-301DA | TEAC

PCオーディオを楽しみたいなあと思ったので,USB-DAC付きのアンプがずっと欲しかったところ,毎日勉強でイライラして勢いで買ってしもうた。お金を使うのはそれだけでストレスを吹き飛ばす効能がある。

しかし,肝心のUSBケーブルを買い忘れてしまったので,今日はとりあえずテレビにつないでラブライブ!をみてみた。スピーカー自体はそんなに高価なものではないのだけど,やっぱりテレビのヘボスピーカーと比べるとやはり雲泥の差だね。色んな音がきこえる。俺はまったく耳が肥えているほうではないので,いわゆる「違いの分かる男」ではないけど,背景で流れる音に楽器が一つ二つ増えたかのような,そんな感じ。聞こえなかった音が聞こえるというのは,これまで損してた感じだ。早く買っておけばよかった。

これでよりいっそうラブライブを楽しめるようになるので,よかった。

 

 

あとすこし会社法がんばって寝よう。

13日の金曜日ってめっちゃ多いような気がするけど,これはたぶん13日の金曜日を特別意識して認識するから記憶に残っているだけで,実際は数学的確率に従って均等に分布しているんだろうね

刑法ができないので,すこし落ち込んだ。しかし,できない原因がわりと明らかかつ単純であることは一つの救いである。その原因とは,すなわち,勉強不足である。これが才能不足であるとか犯罪に対する感受性に根本的な欠陥があるとか,そういう類のものだったら絶望の淵に京阪電車に身投げするしかあるまい,ということにもなりうるのだけど,勉強不足の場合は黙々と努力するだけで対処できますからね,単純なものです。アレコレ思い悩む性質のものではない(と自分に言い聞かせる)。

 

今日は,大学生がなぜみんな同じように旅行旅行と騒ぐのかについて考えていた。

旅行が一つの趣味として文化として根付いていることは確かなことであるし,現に旅行を愛する人も多いのだと思うんだけど,それを考慮にいれて差し引いて考えても,さすがにこんなにもみんながみんな旅行旅行と異口同音にいっているのは異常なように思う。卒業旅行とかそういう一つの通過儀礼というか定番イベントとして定着しているものにみんなが同じように行くってのはわかるし,俺も是非いきたいんだけど,たとえば大学4年の夏に就活がはやくおわって卒業まで時間があるという話になると,ほぼ必ず「時間あるんやったら旅行いけるね!」みたいな話になるじゃないですか。ワンパターンすぎる。みんながみんな,こうも異常な割合の大学生が時間とお金があれば旅行をしたいという似た興味関心の志向をもっているわけがない。人間はもっと多様なもんでしょ。そんなにみんな時間があればしたいこと単一なのか。

それとは別の視点の違和感なのだけど,学生のうちしかできないこと=旅行っていう発想もよくわからない。社会人になっても休みがないなんてありえないわけだし,旅行を愛するならば,人生のいたるところで旅行にいけばよい。懐具合も充実した社会人であれば親の脛をかじらずともインドでも東南アジアでもどこでもいけるだろう。

そこで俺は考えたのだけど,これは,「充実した大学生活を送る者は旅行をする」というイメージがまず先行していて,そういった曖昧なイメージが大学生のあいだに蔓延しているから,「自分は充実した大学生活を送っていること」を確認しないと気が済まない人たちが,旅行旅行と騒いでいるのではないだろうか。そこでは旅行はしたいからするものではなくて,自分の大学生活が充実していることを確認する作業にすぎないのである。

本当に旅行をしたいと思っている人に,上記のようなしょうもない人間の人数がプラスされるから,旅行旅行といっている人間の数が異常に多いように思われるのではないか。

 

ここで話をすこし一般化して,ひろく世の中に目を向けてみると,同じ構造はたくさんみてとれるような気がしてくる。同じ構造というのは,幸せであることを確認するために,幸せと世間一般に思われる行為をする,というものだ。目的と手段があべこべになっているのである。FBに写真をあげるのだって,自分の人生が“ちゃんと”華やいでいるか,確認せずには人生が楽しいかどうかを実感できない(ほかでもない己の人生なのに!)種類の人たちのかなしい足掻きであるように思われる。

 

まあ本当のところは,どうかわからないですけど。ただひとつ言える確かなことは,こんなひねくれたことを考える俺の生活は,充実していないということです(主観的には毎日たのしいけどな!

 

 

寝る。

明るい太宰治

太宰治というと暗く陰気なイメージを持つものが多いと思う。太宰と言われて多くのものが思い浮かべるのは次のような事柄ではないだろうか。すなわち,人間失格,四度に渡る自殺未遂,そして挙げ句グッドバイ未完で自殺完遂。…とっても暗いね。ダザイ・クライネ・ナハトムジークだ。

ちなみに太宰治の処女作品集は「晩年」という題名である。なぜデビュー作なのに晩年なのかというと、次の引用を参照して欲しい。以下,断りなき限り青空文庫からの引用である。

「晩年」は、私の最初の小説集なのです。もう、これが、私の唯一の遺著になるだろうと思いましたから、題も、「晩年」として置いたのです。*1

どうやら「晩年」発表の後に死ぬつもりだったらしい。だからこその「晩年」なのだ。暗いよ、暗すぎる。ダザイ・クラスギルネ・ナハトムジークである。

 

いやしかし,少しばかり待って欲しい。たしかに以上のような点から太宰治は暗い,というイメージをもつのはまあ健全な感覚なのであるが,それだけでは太宰治を評するにあまりに一面的にすぎる,と俺は強く主張したい。人生の虚無を見つめ続けた一方で,彼ほど優しく,ユーモアに溢れ,読者に奉仕し,そして人間の美しさ,希望を信じた作家もそうはいないと俺は思うのである。

そこで,今日は題して「明るい太宰治」。太宰の著作から,俺の好きな明るく希望にあふれ,かつ,すぐ読める短い作品をいくつか紹介したいと思う。完全に自己満足であるが,なんだか急にそういうことがしたくなったのである。

引用部分は俺の好きなところである。また,それぞれ青空文庫へのリンクを貼ってあるから,気になったら全文読んでみて欲しい。

 

 

1.お伽草紙より,「カチカチ山」

「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の四つの昔話のパロディからなる「お伽草紙」であるが,なんといってもイチオシは「カチカチ山」である。

カチカチ山の物語に於ける兎は少女、さうしてあの惨めな敗北を喫する狸は、その兎の少女を恋してゐる醜男。これはもう疑ひを容れぬ儼然たる事実のやうに私には思はれる。

太宰にかかれば昔話のカチカチ山は,少女に恋するおっさんの話として新たな息吹が吹き込まれるようである。「美しい処女たる兎」に恋をした身の程知らずの「中年男性たる狸」は,美しい処女流の残酷な仕打ちにあい,最後には死に至るのであるが,最後に太宰は,次の文章をもって物語をしめる。モテナイ諸君は教訓とすべきであろう。

 ところでこれは、好色の戒めとでもいふものであらうか。十六歳の美しい処女には近寄るなといふ深切な忠告を匂はせた滑稽物語でもあらうか。或いはまた、気にいつたからとて、あまりしつこくお伺ひしては、つひには極度に嫌悪せられ、殺害せられるほどのひどいめに遭ふから節度を守れ、といふ礼儀作法の教科書でもあらうか。
 或いはまた、道徳の善悪よりも、感覚の好き嫌ひに依つて世の中の人たちはその日常生活に於いて互ひに罵り、または罰し、または賞し、または服してゐるものだといふ事を暗示してゐる笑話であらうか。
 いやいや、そのやうに評論家的な結論に焦躁せずとも、狸の死ぬるいまはの際の一言にだけ留意して置いたら、いいのではあるまいか。
 曰く、惚れたが悪いか。
 古来、世界中の文芸の哀話の主題は、一にここにかかつてゐると言つても過言ではあるまい。女性にはすべて、この無慈悲な兎が一匹住んでゐるし、男性には、あの善良な狸がいつも溺れかかつてあがいてゐる。作者の、それこそ三十何年来の、頗る不振の経歴に徴して見ても、それは明々白々であつた。おそらくは、また、君に於いても。後略。

 

  

2.花燭 燭をともして昼を継がむ。

 祝言しゅうげんの夜ふけ、新郎と新婦が将来のことを語り合っていたら、部屋の襖ふすまのそとでさらさら音がした。ぎょっとして、それから二人こわごわ這い出し、襖をそっとあけてみると、祝い物の島台しまだいに飾られてある伊勢海老えびが、まだ生きていて、大きな髭ひげをゆるくうごかしていたのである。物音の正体を見とどけて、二人は顔を見合せ、それからほのぼの笑った。こんないい思い出を持ったこの夫婦は、末永くきっとうまくいくだろう。かならず、よい家を創始するにちがいない。

このような美しい書き出しからはじまる,無垢な男女の恋愛譚である。

 

 

3.畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―

 私は、犬については自信がある。いつの日か、かならず喰くいつかれるであろうという自信である。

これはとてもいい物語だと思う。ひねくれた語りが,かえって愛情の深さを感じさせる。

 

 

4.満願

本日紹介する作品の中で最も短いものである。こんなに短い文章の中でこんなにも人の心を動かせるなんて…と感動したものである。清潔な風が頬をかすめてゆくような,爽やかな気持ちになることを保証しよう。

 ふと顔をあげると、すぐ眼のまえの小道を、簡単服を着た清潔な姿が、さっさっと飛ぶようにして歩いていった。白いパラソルをくるくるっとまわした。

 

 

5.I can speak

 ――ば、ばかにするなよ。何がおかしいんだ。たまに酒を呑んだからって、おらあ笑われるような覚えは無ねえ。I can speak English. おれは、夜学へ行ってんだよ。姉さん知ってるかい? 知らねえだろう。おふくろにも内緒で、こっそり夜学へかよっているんだ。偉くならなければ、いけないからな。姉さん、何がおかしいんだ。何を、そんなに笑うんだ。こう、姉さん。おらあな、いまに出征するんだ。そのときは、おどろくなよ。のんだくれの弟だって、人なみの働きはできるさ。嘘だよ、まだ出征とは、きまってねえのだ。だけども、さ、I can speak English. Can you speak English? Yes, I can. いいなあ、英語って奴は。姉さん、はっきり言って呉れ、おらあ、いい子だな、な、いい子だろう? おふくろなんて、なんにも判りゃしないのだ。……

酔うと生まれるこういう心境は本当によくわかるので,ほほえましい。

 

 

他にも「ろまん燈籠」「黄金風景」「新樹の言葉」「令嬢アユ」など素晴らしい作品はたくさんある,が飽きたのでここで筆を置くことにする。

5thラブライブ,ライブビューイングへいってきたよ

テスト期間まっただ中である。

 

ついに大学院生活最後の試験だ。卒業がかかっている,という意味でももちろん重要な試験だし,小学校から数えると18年間にも及ぶ学生生活の集大成となる試験ということからも重要なものだといえるだろう。終わりよければすべてよし,しかし逆にいうと最後をしっかりシメることができなければそれまで積み上げてきた18年間に及ぶ過去の自分の努力をを無に帰することにもなりうる,そういう「重み」をもった試験なのである。

 

とまあ,前振りは以上である。

1月末から期末試験が始まったのだが,ついったーやにこりんぱなラジオで流れてくるライブの練習情報をきいていると,ライブを見たい気持ちが溢れだし,矢も盾もたまらなくなったので,μ's Go→Go! LoveLive!2015 ~Dream Sensation!~(いわゆる5thラブライブ!)1日目ライブビューイングへでかけてきた。

どの曲もどの瞬間も素晴らしいものであった。ライブをみたラブライバーは例外なく,「ああ…ラブライブ!が好きでよかった!!!うっひょひょーい!!!うぴょぴょぴょ!!!(大量失禁)」と思ったことであろう。発狂ものの素晴らしさだった。

頭から終わりまで逐一感想を書き連ねたいのであるが,主要な点に絞ろうと思う。特筆すべきところは以下の二点に集約されよう。

 

1.Love wing bell の神演出

えみつんたち2年生メンバーだけが舞台に残り,MCで「沖縄にいきたい」などと脈絡なく&唐突に言い出したときは,この人達はいきなりなにをいっているんや…?緊張でおかしくなったか…?と阿呆な私は思ったものであるが,「それでは沖縄にいってくる」とえみつん一行が舞台脇にはけた瞬間,鋭い私は感づいた。

これは…アニメ第二期第5話「新しいわたし」の再現や…!!Love wing bellがくるぞ…!

暗転の後,舞台の照明がつくと,そこにはなんとウェディングドレスに身を包んだ天使こと飯田里穂氏である。

予想があたったことだけでも私をして興奮させるに十分であるところ,この神演出である。全身の細胞が狂喜乱舞し,一瞬にして脳内麻薬中毒者となった私はトロンとした目でスクリーンに釘付けとなった。

生きていて,こういう瞬間というのはそうあるものではない。時間にしておよそ5分,幸せな時間であった。

りんぱな結婚おめでとう。

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2.ユメノトビラの衣装のそらまるのかわいさ

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上記画像はもちろん矢澤にこ氏(2次元)であるが,ライブであらわれた徳井青空氏(3次元)の風貌は上記の画像と一切の相違がなかったのである。

そらまるのかわいさは次元をさえ超越したようである。2.5次元的世界に私を連れて行ってくれたそらまるに感謝感激感無量である。

 

 

二日目のライブではさっそく6thライブの開催が発表されたようであるが,次回はぜひとも本会場に参戦したいという思いを強くしたのであった。

 

 

 

読み返すと,オタク丸出しのとてもキモチワルイ日記になりましたね。